和良鮎を知る
鮎は古来より初夏から夏の季節を代表する食材として知られ、清
涼感をもたらす食材である。その気品鮎は古来より初夏から夏の季節を代表する食材として
鮎は古来より初夏から夏の季節を代表する食材として知られ、清涼感をもたらす食材である。その気品のある優美な姿、きめ細かな色彩、鮎は川魚の中で最も美しく「清流の女王」と呼ばれる。和良鮎の商標の文字はこの美しき鮎を象ったものである。そしてこの和良鮎の最大の魅力は、なんと言っても「香り」であり、その涼しげな西瓜のような芳香は、夏の河原一帯を満たしてしまうほどの香気であり、また、良質な藻類をいっぱいに詰め込んだその「腹ワタ」は、食べた瞬間に、あの夏の川原の芳香が口の中いっぱいに広がる。ほろ苦さの中に甘さと旨味がありこの絶妙な風味は人々を魅了する。
この美味なる魚、鮎は山に囲まれ海のないこの岐阜の土地では貴重な高級食材として扱われてきた。その昔、明治40年代から大正初期にかけて東京などでは鮎を夏の季節の食材として珍重された。静岡周辺では、東京への出荷のために鮎の友釣りが盛んに行われ鮎を釣り売ってこれを生業とする職漁師が存在した。その中には更なる良質な鮎を求め他国の川へ遠征する出稼ぎ漁師が現れこの岐阜の地を漁場としていた。現在の鮎の漁法を岐阜県内に持ち込み根付かせたのはこの時代の漁師たちである。彼らの中には自らこの地に身を埋め漁をし漁具を作りそれを生業としその川の職漁師となったものもいた。このような歴史の背景の中には、いかにこの岐阜の地が、それほどまでに鮎職漁師を魅了して止まない土地であったことに疑いはないのである。
では、なぜこの岐阜の中でも和良鮎が特化した味になるのだろうか?それは鮎の食性が川に生える藻類であり、その藻類が最良であることに他ならない。また、それを育てる水に理由があり、同時にその水を作り出す特有の地質に理由があるのだ。 岐阜県は内陸部にあるのにも関わらず、この和良町の地質は古く海洋由来のものである。日本列島が作られていくとき、海洋プレートは海底に堆積した堆積岩類、サンゴ礁周辺と石灰岩・珪質泥岩などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで徐々に移動して海溝部で大陸の下へ沈み込んでいくが、堆積物は一緒に沈み込むことができず、はぎ取られたり、大陸側から運び込まれた砂岩・泥岩などと共に大陸側へ押し付けられ、混じり合いながら長い年月をかけて陸地を形成していくのである。
この和良町の地層には、サンゴ、フズリナ、石灰藻などの化石が数多く産出することが知られており、海底火山島の上にできたサンゴ礁周辺の環境を表わしている。和良町の大地はその太古の海が残した石灰岩帯であるという事が分かるのだ。この和良の大地に雨が降りこれが水源となる、雨は生き物が排出した二酸化炭素を溶かし込み弱酸性となって大地に降り注ぎ、石灰岩を溶かし地下に鍾乳洞を形成しながら流れ炭酸カルシウムをはじめ多くのミネラルを含んでいく。更に山々の森を抜け朽ちた木々たちから鉄分などを受け取り、こなれてゆく、やがてこのいくつもの細流は集まり川となり複雑な流れにより揉まれ酸素を取り込んでいく、日の光を浴び緩やかに流れ、こうして作られた生きた水が藻類を育てる。藻類は夏の和良川を覆いつくし川全が茶褐色に染まる。
この藻を食べ和良鮎は育つ。鮎達が一斉に川底の石に着いた藻類を食み始めると川全体が明るい茶褐色に変わり川原一帯が鮎の芳香に包まれる。この様を見て釣り人たちは「夏の和良川は艶々と光る」こう表現したのだ。それほどまでに多くの藻類を食べて和良鮎は育つのだ。あの焼き上がる芳香と金色の美しい姿、口の中に入れた時に広がるハラワタの旨みはこの大自然が造り出した宝と言えよう。「鮎の味は川の味」まさにこの言葉の表すところである。
大正から昭和の初期、高度経済成長期には電力供給の為に多くの河川にはダム建設が施された。鮎は秋に下流域で孵化し幼魚 期間を海で過ごし春に遡上し一生の大半を川で生活する魚であるため、このダムによって海と川を繋ぐ大切な道を閉ざされ、その川から鮎の姿は消えた。そのような世相の中、昭和6年、旧和良村では、村内有志が琵琶湖から1000匹の稚魚を買い付け和良川へ放流したと記録(和良村史 近代百年)に残っている。当時、交通機関は発達しておらず手渡しでしか、運ぶしか手段はなかった、もちろん酸素などない。水桶にいれた鮎が酸欠し ないよう水を柄杓でゆっくりと掻き混ぜ、時には沢の水を汲 み息をさせ遠方の滋賀県の琵琶湖から運び更に20km以上もある険しい急な峠道を越え和良川まで届けたのである。 時間、労力、現在ではとても考えられないほど過酷な道のりであったことは間違いはなく、それほどに意味を持つ魚だ ったのだろう。
そして、この努力の3年後の昭和9年には和良川漁業組合が設立され初めて計画放流が実施される事となったのだ。昭和の20、30年代には、捕れた鮎はほとんどが和良川漁業組合集荷所にて集められ盛んな時期には東京市場にも出荷しておりこの時代の売り上げとしては大きく養蚕に次ぐ農家の大きな収入源となっていた。そこから時代の移り変わりと共に鮎を釣り生業とする者はいなくなり、鮎釣りはレジャーとしての位置づけに変わってきたのだ。
平成の時代になり田舎の小さな町では高齢化と過疎化が進み川を守る流域の人々と釣りをする人の数は減り衰退避けて通れない流れであった。そのような状況の中、和良川に転機が訪れるのは2002年の夏のある日のこと。全国の河川を釣り歩く鮎釣りの名手が和良川を訪れていたとき、彼は日本各地の鮎を食べ尽くしていたが「和良の鮎は別格だ」こう言い品評会への出品を薦めたのだ、そして驚くことにその年に出品した鮎はなんと2002年の全国清流めぐり利き鮎会においてグランプリに選ばれたのだ。
これを機に人々は自分たちの住む和良の自然とその価値に気付きこれをふるさとの宝とし守っていこうという大きな動きとなっていった。その後もグランプリを4回と準グランプリを5回獲得し平成27年には特許庁により地域団体商標として登録された。20年以上前より上下水道を完備し水を守り、水源である山を守り多くの人々の努力は実りつつある。この希少な鮎は地域に住む人々、全国の釣り人、料理人、食す人様々な人たちから愛され守られ育っているのだ。
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